データ取得中

-1級- Ch.Margaux (シャトー・マルゴー)

AOC:Margaux(マルゴー)

ボルドーのメドック地区マルゴー村にあるシャトーです。
シャトー名、シャトーが作るワイン名が共に「シャトー・マルゴー」です。村名も「マルゴー」のため「Margaux」とラベルに大きく書かれている村名ワインが多数存在しますが、シャトーマルゴーとは異なります。
5大シャトー(ボルドーの中でも最も有名かつ高価なワイン5種類)の中で最も「女性的なワイン」と形容されており、ワインの女王とも呼ばれます。(ワインの王と呼ばれているのは、同じく5大シャトーの一つであるシャトー・ラフィット・ロートシルトです)

シャトーは262ヘクタールの土地を所有しており、その中の87ヘクタールで赤ワイン用のブドウ、12ヘクタールで白ワイン用のブドウを栽培しています。
シャトー・マルゴーは年間約35万本が生産されます。第1級に品質には達しないとされた赤ワインはセカンドラベルの「パヴィヨン・ルージュ・デュ・シャトー・マルゴー」として出荷されます。
白ワインも「パヴィヨン・ブラン・デュ・シャトー・マルゴー」として年間約4万本が生産されています。

ワインのブレンドの比率は、かつてはカベルネ・ソーヴィニヨン75パーセントを主体とし、メルロー20パーセント、プティ・ヴェルドとカベルネ・フラン5パーセントを基本の比率としていましたが、2000年前後からやや傾向に変化があり、カベルネ・ソーヴィニヨンの比率を83~86パーセントに引き上げてメルローの比率を落とした作りをしています。


シャトー・マルゴーの歴史は古く12世紀の文献に「ラ・モット・ド・マルゴー」という名前の農園として登場します。当時のボルドーワインはフランス宮廷では消費されず、主にイングランドで消費されていました。100年戦争の終結までは、ボルドーはイングランド領であり、当時様々な貴族がシャトー・マルゴーの所有者となっています。
1570年年代にピエール・ド・レストナックという貴族の所有となったことで、シャトーマルゴーには転機が訪れます。メドックがワインの産地として発展すると考えたド・レストナックは、1572年から1582年の間にシャトーの穀物畑を減らしブドウ栽培を増やし、ワインの生産に注力して現在のシャトー・マルゴーの基礎を築きます。18世紀の前半にはシャトーの面積は現在と同程度までに拡大します。また、当時、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人がシャトー・ラフィットをフランスの宮廷に持ち込むことで、専らブルゴーニュを飲んでいたフランス宮廷の人々がボルドーワインにも目を向けるようになります。そういった流れの中で、ルイ15世の別の愛妾デュ・バリー夫人はシャトー・マルゴーをフランス宮廷に持ち込み愛飲しました。

18世紀の後半に、シャトーは大富豪ジョゼフ・ド・フュメルとその娘マリー・ルイーズの所有となりますが、フランス革命の影響でギロチンにかけられてしまい、シャトーは革命政府の所有となります。
1801年、シャトーはド・ラ・コロニラ侯爵の手に渡ります。ド・ラ・コロニラは当時一流の建築家ルイ・コンブに依頼し、ギリシア神殿風のシャトーの建物を1810年に完成させています。この建物は、現在のエチケットのデザインにも使われています。

19世紀中ごろにシャトーの所有者となったのは、皇后ウジェニーの侍女も務めたスコットランド人女性エミリー・マクドネルでした。当時、ナポレオン3世の開催した1855年のパリ万国博覧会の際にメドックワインの格付けが実施されたとき、シャトー・マルゴーはブラインドテイスティングで唯一20点満点を獲得し、シャトー・ラフィット、シャトー・ラトゥールに次ぐ第1級第3位にランクされました。

エミリー・マクドネルはナポレオン3世の失脚すると、皇后ウジェニーと共にイギリスへ亡命します。
その後、1934年になるとシャトーはボルドーのネゴシアンであるジネステ家の所有となります。ジネステ家はセカンドラベルの導入、ブドウ畑の拡大、醸造設備への投資など、ワイン作りに力を注ぎます。しかしながら、1960年~1970年の間、シャトー・マルゴーはその名声を落としていきます。そして、1973年~1974年の「ワインの大暴落」の際に大きな損失を出したジネステ家はシャトーを売りに出し、1976年にジネステ家からシャトーを買い取ったのはギリシャ人アンドレ・メンツェロプーロスでした。
メンツェロプーロスは各国での事業で成功し大きな富を蓄えていました。メンツェロプーロスはボルドー大学の醸造学者エミール・ペイノーをシャトーの技術顧問に迎え、失墜していたシャトー・マルゴーの名声を取り戻していきます。メンツェロプーロスは1980年に亡くなり、現在はシャトーは彼の子孫たちによって運営されています。